教えのやさしい解説

大白法 506号
 
十如是(じゅうにょぜ)
「十如是」とは、十如境(きょう)ともいい、諸法に具(そな)わる十種の存在の法則(ほうそく)、諸法を十の側面(そくめん)から見たもので、宇宙法界(ほうかい)の時々物々・森羅(しんら)万象(ばんしょう)の存在と活動の姿を示す万物の法則をいいます。「如是」は「是(か)くの如(ごと)き」と読み、これは、ありのままの事物・事象の姿ということで中道(ちゅうどう)実相を意味します。
 法華経方便品(ほうべんぽん)第二に、
 「佛の成就(じょうじゅ)したまえる所は、第一希有(けう)難解(なんげ)の法なり。唯(ただ)佛と佛とのみ、乃(いま)し能(よ)く諸法の實相を究尽(くじん)したまえり。
  所謂(いわゆる)諸法の如是相、如是性、如是體(たい)、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(新編法華経 八九)
と説かれた略開(りゃっかい)三顕一(さんけんいち)の文(もん)で、天台大師が一念三千の法門を立てる出処(しゅっしょ)となった法理(ほうり)です。
 「如是相」とは、外(そと)より見て判別(はんべつ)される状態のことで、あらゆる事物の相状(そうじょう)をいいます。
 「如是性」とは、内(うち)に具(そな)わる心と心によって積まれた性質・性癖(せいへき)をいいます。
 「如是体」とは、一切の事物の本体、当体のことをいいます。
 「如是力」とは功能(こうのう)のことで、体(からだ)に具わる潜在的(せんざいてき)能力のことをいい、種々の作用(さよう)を起こす本(もと)の能力です。
 「如是作」とは、力が静動二態中(せいどうにたいちゅう)において、自他(じた)に及(およ)ぼす作用のことです。
 「如是因」とは、過去より相続(そうぞく)して内心に習慣的(しゅうかんてき)に存在し、次の果を招(まね)く習因(しゅういん)、直接(ちょくせつ)原因をいいます。
 「如是縁」とは、主要(しゅよう)な原因を助けて果を成(じょう)ぜしめる外的(がいてき)原因、間接(かんせつ)原因のことをいいます。
 「如是果」とは、習因が成就して顕(あらわ)れた結果である習果(しゅうか)をいいます。
 「如是報」とは、因と縁によって招来(しょうらい)した結果が、さらに長く牽(ひ)かれて現れる状態をいい、いわゆる報(むく)いのことです。
 「如是本末究竟等」とは、最初の相(そう)を本(ほん)とし、九番目の報(ほう)を末(まつ)として、この本と末が究竟(くきょう)して等(ひと)しいことをいいます。
 このうち相・性・体の三如是は諸法の本体を表(あらわ)し、力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の七(しち)如是はその用(はたら)きを表しています。
 すべてのものは、この十種の在(あ)り方によって生起(しょうき)しながら、本体と用(はたら)きとが互(たが)いに一体性を保(たも)っているのです。
 大聖人は『十如是事』において、三如是を仏身(ぶっしん)に約(やく)すと三身如来となり、理に約せば三諦(さんたい)となり、功徳に約すと三徳となることを明かされています。
 私たちが勤行の際(さい)、十如是を三回繰(く)り返して読誦(どくじゅ)することも、この徳を我が身に顕す意味からです。
 さらに、『当体義抄(とうたいぎしょう)』に、
 「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転(てん)じて、三観(さんがん)・三諦即(そく)一心に顕はれ」(御書 六九四)
とあるとおり、私たちは、ただ三大秘法の御本尊を信じ、自行化他にわたる題目を唱えることによってこそ、即身成仏が叶(かな)うのです。